こんにちは、ぐうたら主婦のあのたまです。
無力感や無価値観、死にたい気持ちなど、ここ数か月間は自分にとってあまり心地よくない感情に向き合う状態が続いてきました。
そして、最近はとうとう「暇」や「退屈」に向き合うことになっています…(;´∀`)
皆さんは「暇」や「退屈」についてどのような考えを持っていますか…?
私はあまり良いイメージが無くて、その時間を過ごすのが今までとても苦手でした。
時間を無駄にしているような気持ちなりますし、何かせずにはいられない状態になってしまうんですね。
そのため、出来るだけ(自分にとって意味のある)何かをしているようにしたいと意識的に思うようになりました。
予定いっぱいの手帳に憧れた学生時代…
このような気持ちを抱くようになったのは、学生時代に友達の「予定いっぱいのスケジュール手帳」を見てからでした。
当時、私の周りの友人はとにかく活動的で行動的な人ばかりでした…!
いつも忙しそうなのですが充実感があり、イキイキと輝いているように見えました。
一方で、私の手帳は真っ白…!!(笑)
そのため、特にやりたいことも無くて何もしていない自分が急に「退屈な人間」に思えてきて、大きな焦りと惨めさを感じ始めました。
そして、「私も何かしなければ!!」と友人を真似っこしてジタバタしていたのを覚えています。(↓↓↓そんな思い出を以前漫画で書いていました…(笑))
つまり、私にとって「退屈」とは、
=「惨めな人」=「つまらない人」=「劣っている人」=「役立たずな人」etc..…
というネガティブなイメージを繋げてしまう言葉だったのです…(;´∀`)
だから、出来るだけ自分が「暇」や「退屈」な時間を過ごすことが無いように、無意識に「頑張って」いたのだと気付きました。
子なし専業主婦は、やっぱり退屈だった…!?
私は過去に、自分が「子なし専業主婦」である事実を認めるために、以下のような記事を書いています。↓↓↓
この記事を書いた時点では、実際その通りに感じていて、丁寧に過ごす充実した日々にとても満足していたように思います。
しかし、当時の私には「創作活動」をやりたいという、意欲的な楽しみがありました。
つまり、結局「何か」をやっていたんですね。
そのため「暇」や「退屈」を感じている時間はありませんでした。
現時点では、この記事を書いて自分を見つめていったおかげで、自分が「子なし専業主婦」であるかどうかはあまり気にならなくなりました。
しかし、この時に(検索キーワードを意識しつつも…w)あえて「退屈じゃないよ!」とか「幸せ」という言葉をタイトルに付けているところを見ると、私にとって他人から自分が「退屈」だと思われることは、かなり避けたいことだったのかなぁと思います。
(この時は「退屈」についてそこまで深く考えていませんでしたが…(;´∀`))
これは自分が身をもって経験したから分かることなのですが、悩みの対象から解放されて自由になると、そのことについて「意識しなくなる」んですね。
そのため、わざわざ自分で「幸せです!」とか「楽しいです!」とか言っているのは、めちゃくちゃそのことを意識している状態であったかもしれません。
あらゆることへの興味が無くなってしまった…
さて、このように自分にとって何か「夢中になれること」があったり、楽しいか楽しくないかは別にして何か「行動」を起こせているならば、「暇」や「退屈」という感情からは逃れられる訳です。
けれど、それらが底をついてしまったらどうなるのでしょうか…?
実は私はここ最近で、とうとうこの状態に陥ってしまったのです。
(端からはそうは見えなかったのかもしれませんが…(;^ω^))
このようになってしまったのは、以前「死にたい気持ち」に向き合ったことで「この世には意味も価値も無い」ということを心底、感じてしまったことがキッカケでした。
心の底から何もやりたくない
私は今まで「これさえあれば私は幸せになれる」と思える「何か」を探してきました。
なので、一つ一つそれを確かめるように興味あることに手を伸ばしてきました。
時には衝動的に、時には頭で考えを巡らせて…。
それは「遊び」であったり「仕事」であったり、「人」であったり「趣味」であったり様々でした。
しかし、私が求めるものは手に入らないと分かったのです。
すると(それまでも既にその傾向はありましたが)、やる気も湧いてこず何をやっても楽しくなくなってしまったのです。
また、もはや過去の自分のように「無理(犠牲)」することも、以前のように出来なくなってしまっている自分に気付きました。
「暇」と「退屈」の時間に抵抗する「武器」が底を尽きて動きが止まったので、元々あった心の底の声もハッキリ聞こえてきたのです。
「もうこれ以上、無理をしたくない。本当に何もやりたくない…。」
今までは何かやることでこの声を聞かずに過ごせていましたが、今度ばかりは考えても行動しても、この状態に「抵抗」出来ないことが分かりました。
「退屈な自分」こそが、本来の姿…
私は今まで、自分が「退屈な人間」であることを認めたくありませんでした。
けれど、ようやく気付いたのは私はこの上なく「退屈な人間である」ということです。
そのことを認めるということは、自分が作り上げたネガティブなイメージ(惨め、つまらない人、劣っている、役立たず…etc.)を自分に当てはめることになります。
でも、過去の自分がそうで今までもずっとそうだったように、そうでしかないのです。
ただただ、虚しく悲しい。惨めな気持ちになる…。
でも、それを受け入れて感じることが、今の私がしなければいけないことでした。
問題が無いことが問題だった…
多分、ここまで私のブログを読んでくださった方は、「え…?退屈で何か問題でもあるの…?いいじゃんそれで…(;´・ω・)」と思ってくれた方も多いのではないでしょうか?
おっしゃる通り、それは実際その通りでした!…(笑)
何もしなくても許される状況は既に用意されていたのです。
ただ、自分がそれを受け入れるのがあまりに恐くて(=自分が退屈な人間だと受け入れるのが怖くて)それが出来なかったのです。
カウンセリングでは色々なことを話しましたが、この件に関しては、私は「問題が無い」ということを何よりも「恐れて」いたのだと気付かされました。
逆に言うと、この「退屈な自分」の姿を見たくなくて、今まで「問題」が欲しくてたまらなかった…とも言えるのです。
私は今まで「退屈の向こう側」には行ったことはありません。
でも、もはや逃げることなく、「退屈」と「退屈に付随するネガティブな感情」を感じていきたいと思います。
「何もしない」ってどうやってやるの…?
実は私は昨年も同じ先生にカウンセリングを受けていました。
前回は別の件で相談に行きましたが、今回と言われたことはほぼ同じでした…(笑)
それは「何もしないでください」ということでした。
でも、私はこの「何もしない」というのがよく分からなかったのです。
何故なら、「何もしてない人」など周りを見ても誰もいなくて、何をどうすれば良いか分からなかったからです。
結論としては「感情を感じる」ということでした。
長い対話の結果、ようやく「あ~!!そういうことだったんですね!!」と、腑に落ちる例えをもらうことが出来たのは本当に大きかったです。
感情解放(EFT)で変なクセがついてしまっていたらしく、これからはしばらくEFTは封印するかもしれません…(;^ω^)
「自分とはこういう人間だ…」という「自我」を、私はずっと手放さないで抱え込んでいる状態だということなので、とにかく手放せるように精進したいと思います。