あのたまのクリスチャン生活

聖書と賛美とお祈りの日々をつづります。

「空」の世界…?大きく広がっていく体験

瞑想 公園

小鳥の声さえずる大好きな場所で、ただ静かな時間を過ごす

こんにちは、ぐうたら主婦のあのたまです。

最近は天気が良いと本当に気持ち良い陽気なので、ほんの少しの時間でも良いので出来るだけ公園に行って、太陽の光や風を感じて日向ぼっこしています…(*´ω`*)

そんなことばかりしているからでしょうか…?(笑)

昨日の夜、瞑想中に大きな体験があったので、記録として残したいと思います。

 

いつもの如く、夜寝る前に一時間ほど「ただ見る」ということをしていたのですが、その際に急に「ストンッ」と脳内の雑念が無くなり、「自分の体」が見られているような感覚に陥り、「シーン…」と「何もない状態」が続きました。

実はこの「無思考」のような状態は、瞑想を始めてからもう何度か体験しています。

ただ、体験の時間の長さ一が瞬であったり、かなり短かったりするのですが、瞑想をすればするほど、だんだんその時間が伸びているような感じはしています。

そして今回は、たまたま、かなり長かったのです。

自分は自分の体ではなく、全体であり、空間であり…。

体験の後に言葉が出てきて「何だコレは…?」と脳内であれこれ言っているので、言葉で説明しようとすると全く意味不明なのですが、とにかく自分は全く「無い」のですが、同時に「全てで在る」ような感じになったのです。

なんとも気持ちよく全体に広がっていくような感覚で、心地が良かったです。

その後に、背骨に大きなエネルギーが下から上に登っていくような感覚を覚えたのですが、これは以前も「クンダリーニ上昇ワーク」の際に感じたような体の反応でした。

この体感も瞑想をしている時に何度か体験しているので、もはやあまりビックリはしなくなったのですが、昨日の夜は大きかったので「おおおお…!?」という感じになりましたね…(笑)

あと、最近多いのが「自分はいまどこにいるんだっけ?」とか「何してるんだっけ?」と、我を忘れることが多くなったことです。

これは小さい頃は良くあったので、懐かしく思いました。

 

こんな具合に瞑想をしていく中で、悟りやスピリチュアル系の本に書いてある体験が、自分の身に起こっていくことが多くなりました。

かつて、あれほど憧れ、渇望したものです。

ですが、体験していく中で、現時点でヒシヒシと感じているのは「なんか思ってたのと違う…。なんか、大したことでは無いかもしれない」ということです(笑)

私はやはりどこかで、覚醒体験を得ることによって、今までとは違う「特別な存在」になれるのではないかと、思っていたんですね。

ですが、結果はその逆で、どんどん「リアル」になっていくのです。

「特別な存在」なんていうのは「脳内妄想」です。

頭の中で、思考がうにゃうにゃお喋りして作り上げた「像」に過ぎません。

「自分(思考)」が削られていることで、ただ在るがままを見ていく過程は、「特別」とは真逆の方向です。

 

ネット上でスピリチュアルや悟りを語る人の中には、この体験を、何かとてつもなく需要で特別なこととして話す方は多いです。

正直、今いるコミュニティの先生でさえ、若干そんな感じです。

だからこそ、生徒である私たちも「何か特別なことをしている」と、勘違いして、優越感に似たような感情と気配を醸し出してしまっているように感じられます。

 

本当だったら、私もそんな風に「凄い体験しました!皆!聞いてきいて!」とアッピールしたいのですが、そうやっちゃうと、どうにも嘘くさいというか、なんか違うんだよなぁとなってしまいます(笑)

 

瞑想を実践して得られるその体験は、確かに、本当に今までに無い至福の感覚ですが、それは「登山で○○岳に登って楽しかったです!」という体験となんら変わりが無いような気がしています。

それらを体験したい人にとっては特別なことかもしれませんが、興味が無い人にとっては、心の底からどうでも良いことなのです。

穂高岳も富士山も高尾山も、登山に興味のない人からすれば全部ただの山ですからね。

登山をすると、頂上の景色やその過程で一時は素晴らしい体験が確かにあるのですが、下界に戻れば普通の日常が待っています。

それと同じように、至福体験を得ても、普段は、普通の日常を送る訳で…(笑)

 

結局、日常生活がほとんどというか、それがメインなんですね。

私は瞑想をする中で、本当にそれを目の当たりにして、これまで全く感じなかった「生きる意欲」のようなものを、後ろ向きに感じるようになってきていますw

 

以前の私と同じように、悟り体験や覚醒体験に淡い希望を抱いている方にとっては微妙なことを書きましたが、、それでも、この道は逆に言うと、必要な人にとっては必要な道なのだとも言えます。

これらの道に進まざるを得ない人は「人はなぜ生きるのか?」とか「生き辛さをどうにかしたい」とか「生きる意味や価値を知りたい」とか、そういうことを追求せずにはいられないのですから。

そして、それらの人々は、意識高い感じの「集中力を上げるために瞑想する」とか「能力向上のために座禅をする」といった人たちとは、明らかに別の人種かもしれません。

まぁ、得られる結果は一緒かもしれませんけど…(笑)

 

私もきっと、そういう、マイナーな人種の中の一人なんですね。

だからこそ、この話に耳を傾けてくれて、一緒に学びを深めていける仲間と出会いたいものです。

これからも、淡々とコツコツとやっていきますよ~(*´ω`*)