特別では無いただの自分を受け入れるとき ~「生」と「死」~
「生」と「死」は隣り合わせ。人は生きたように死んでいく。というのは、本当にその通りだと思う。
そして、私は、自身の祖父母、主人の祖母という数少ない死に、間接的ながら向き合ってきた中で、「人がこの世を去る時、その人がこの世で行ってきた全てが問われる」と考えるようになった。
葬儀を行う際、様式が立派で人数が多ければ良いのではない。いかに、残された者が、死んでいった者に対して「感謝」の念を抱くか、ということが、とても重要だと感じられた。
他者を大切に生きてきた者は、大切にされてこの世を去るのではないだろうか。自身が死ぬとき、一人でも「今までありがとう」と心の中で思ってくれる者がいれば、これ程幸せなことはない。
私は、死ぬことは怖いわけでは無いが、孤独死とか交通事故とかどんな死に方でも良いから、私が死んだ時「ああ、この人に会えて良かった」という気持ちを、身近な人の中で一人でもいてくれたら良いなと感じている。というか、そのような生き方をしたいと思うようになった。
だから、今、主人の祖父の具合が優れなく、その中で心から主人のお見舞いを喜んでいる祖父を見た時、「命をつなぐ」ことの大切さを学んだのである。何故なら、祖父の次は父で、その際、まだ生まれてない私の「子」がそれを繰り返していく必要があるのではないか、と悟ったからである。
「子供を産み育てることの意味」、それが世間でとても「重要」とされる意味。私が無駄とも無意味とも思ってきたその行動と行為の意味が、ようやく心の中で腑に落ちたのである。
同時に、今までの人生、一ミリたりとも考えてなかった「子供」について思いを馳せるようになった。そのため、次に、そのことについて、今の考え述べてみたい。
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