あのたまのクリスチャン生活

聖書と賛美とお祈りの日々をつづります。

「死にたい気持ち」にとことん向き合ってみた結果…

死にたい気持ちと向き合う漫画

死にたい気持ちと向き合う漫画

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こんにちは、ぐうたら主婦のあのたまです(*´ω`*)

今回はいつもの日常的なテーマではなくて、心についてのお話をしようと思います。

タイトル通り「死にたい気持ち」についてです。

ネガティブな面にフォーカスしてるつもりはありませんが、この手の話が苦手な方はスルーしてくださいね…(;´∀`)

 

さて、このテーマ、実は私が小さい頃からずっと悩んできた問題だったりします。

何故かというと、この気持ちが心の底にあるせいで、私はこれまで「何もしないでいる」ということが出来なかったからです。

けれど、この気持ちと向き合い「生きる意味や価値は何なのか?」という問いに対して自分の納得がいく答えを見いだせたことで、「安心感」というか、この世に生きる上で感じる「虚無感」のようなものへの恐れが、ちょっと和らいだのです。

 

私と同じような「死にたい」とか「虚しさ」に悩む人が、果たしているかどうか分からないのですが、同じような気持ちを抱えて苦しんでいる人の参考になれば幸いです(*´ω`*)

そもそも「死にたい気持ち」って何…?

このタイトルの「死にたい」という気持ちは漠然とし過ぎていて、一体どういう意味か分からない方も多いかもしれません。

私が生きるのが本当に辛かった頃は、もちろん「今のこの状況から逃げ出したい!」という気持ちが一番、大きかったです。

何故こんなに苦しまなくちゃいけないんだろう!どうして、この世界はこんなに辛いことばかりなんだろう!もうこんな場所に居たくない!消えてしまいたい!

そんな激しい気持ちが全身を覆っていました。

 

一方で、小さい頃や、あまり苦しくなくそこそこに楽しく生きられている今でも感じている「死にたい」という気持ちは「虚しさ、無意味感」という感情が大きいです。

何か人生に大きな壁や問題がある訳では無いのですが、「何でここにいるんだろう」「早く終わりたい」「いつまでこんなこと続けなくちゃいけないんだ」という気持ちが根底にあるんですね。

かぐや姫が「月へ帰りたい」と嘆くように、私も小さい頃から空を見ては「もう帰りたい」(どこへだ…w)とセンチメンタルになっている時がありました。

 

何でこんな風に思うのか自分でも分からなかったので、とにかく「うっとおしい感情だなぁ…」といつも思っていました。

ワクワクしても自己肯定感を上げても「虚しさ」は消えない

状況はどうあれ、この「死にたい」や「虚しい」という気持ちは、あまり心地よい感情ではありませんよね…(;^ω^)

そんな訳で「出来ればもうこんな気持ちは感じたくない!」と、私はこの気持ちに本当に長いこと抵抗していたように思います。

どうしていたのかというと、とにかく「暇な時間」を作らないようにしていました。

というのも、勉強や仕事に夢中になって忙しかったり、ワクワク楽しく充実した日々を送っていたりすると、この気持ちにがあまり気にならなくなるからです。

 

けれど、ふとその刺激的な日々がひと段落して退屈な時間を過ごし始めると、それはひょっこり顔を出し、「不安や恐れ」「無価値観」「無意味感」に苛まれます。

そのため、また新たな「刺激」を求めて「何か」をし続けるのです。

要するに「暇」と「何もしない」ことに耐えられず、ずっと「刺激」を求め続けていたんですね…(;´∀`)

 

でも、そうしていく中で気付いたのは、結局どんなにワクワクしたり忙しくしたり、自己肯定感を上げようとしたとしても、この根底にある「虚しさ」はずっと「そこに在り続ける」ということでした。

何に対して、虚しさを感じてるのか…?

そもそも、何故こんなにも「死にたい」とか「虚しい」と感じるのでしょうか?

私はある時期、その答えに辿り着いたキッカケの出来事がありました。

 

精神的に苦しい時期を経て、ようやく穏やかな心で生きられるようになってきた頃、私はよく友人とランチ巡りをしていました。

実際それはとても楽しかったのですが、でも、ある瞬間ふっと気付いたんです。

「そうか…私は何度もお店を変えて、結局は「同じこと」を繰り返しているだけだったんだ!」…と。

ご飯を食べて「美味しい!」という時に感じる「幸せ=(刺激)」な気持ちを味わいたくて、何度も何度もランチに通っているのだ…、と。

 

そして、それは食事だけでなく、人生や人間関係においてもそうでした。

興味があることを転々としては、得ようとしていること、求めていることは何も変わっていない。

何度も何度も「幸せ」な気持ちや、自分は「確か」なことをやっているという「充実感」を味わうことに必死になっていると気付きました。

この世界において、自分にとっての「意味」や「価値」を探して、どうにかそれを「得よう」としている自分の姿が見えたのです。

 

それが決して悪いと言っている訳では無く、「もしかしたら人生とはそういうものなのかもしれない」と、何となく感じたんですね…。

虚しさの正体!…自分の人生に諸行無常を感じる

そういうことに気付いてから、実験的に自分を観察してみることにしました。

やりたいことや興味があることに忠実になって、自分の行動を後ろから眺めるという感じでしょうか?

すると、やはり気付いたのは自分は「形を変えて同じことを繰り返している」ということでした。

また、人間関係において、形だけでなく気持ちの面も観察していきました。

すると、感情も「同じ感情」でいつづけることは不可能で、勝手にコロコロと変化していくのです。

人間関係も来ては去りを繰り返し、好きと嫌いの間を揺れ動く。

この世界が常に変化していて、自分も変化していると改めて気づいたのです。

 

当たり前のことじゃないか!と言えばもちろんそうなのですが、「永遠」というものはこの世には無いと、この時期にハッキリ分かったのです。

「これがあれば安心できる」「これがあれば幸せになれる」

そんな絶対的な「確か」なものを無意識に追い求めていましたが、そんなものはこの世界には無いということ…。

それが「虚しさ」の原因なのだと気付きました。

この世界には意味も価値も無い…!?

小さい頃からこの現実世界にあまり興味を抱けなかった私は、精神世界に生きる意味の答えを求めました。

ある時は過去世のカルマを解消するために…だとか、ある時はこの世は修行場だから魂を磨くのだ…とか、またある時は、ワクワク人生を楽しむためだ…とか…。

とにかく、「自分が生きること」に何らかの意味があると思いたかったんですね。

 

けれど、どうにもそれが自分の生き方に全然しっくりこない、どうにもその通りに進めないなぁと思うような時がありました。

そんな中で、「奇跡講座」という本に出会ったり、無神論者の主人との会話によって、私の考え方が少しずつ変化していったのです。

 

そして、とうとう、この世界には意味も価値も無い(のかもしれない)。自分だと思っている自分(自我)にも、意味や価値なんて無い(のかもしれない)と、心の底から感じる瞬間が起こりました。

「そう考えた方が、小さい頃から感じていた疑問が全て解決されるのでは?」と…。

何故、虚無感によって苦しんでいたのか…?

そして、このことが何となく腑に落ちたことで、どうしてこんなにも小さい頃から苦しんでいたのかを理解しました。

つまり、私は「意味も価値もない世界」で「意味や価値を見出そうとしていた」のです。

答えが無い場所で「答えは絶対にこの世界にあるハズだ!」と探し回っていたのです。

でも、私が欲しいものは、この世界には無いのです。

諸行無常の世界において「永遠=絶対=確かなもの」を必死になって求めているのに見つからないことが、私の「虚無感」の根本原因だったのです。

この世界で「死にたい」「やる気が無い」と思うのは当然のこと

これは、私が言ったのでは無く、私が尊敬する先生が言った言葉です。

私は今まで、自分の中にあるこの「やる気」の無さや「虚無感」をどうしても受け入れることが出来なかったので、言葉の意味が正直よく分かりませんでした。

けれど、この世界や、自分(自我)にも意味や価値が無いのなら、ある意味で、この世界に虚無感を感じて当然なのです。

(自我は、自分が意味もなく価値も無いと知っているからこそ、意味や価値を自分に与えたいのです。)

逆に、意味も価値も無い場所で、ここで「生きたい」とか「やる気満々」と思えることもおかしいことなのです。

実際、やる気が出る時って、その対象に対して「何かを期待している」時や「意味や価値を見出した」時ですよね。

自分が興味が無いものに対して、それを「一生懸命やれ!」と言われてもやる気がでません。

無意識の中で、私達は「全てのことに意味や価値がない」と分かっているのです。

けれど、「そうはいっても…」と思い、どうにかそれを探そうとしているのが、人生なのだと私は思っています。 

「死にたい」気持ちや「虚無感」を受け入れる

これまで、私にとって「虚無感」や「死にたい気持ち」は、とても不愉快でうっとおしいものでした。

しかし、そんな不愉快な気持ちがあって当たり前なんだ、当然なんだ、という考えに変わった時、このネガティブな感情が自分の中に「在り続けること」に対しての恐怖心が激減しました。

それ故、この気持ちを感じないようにする為に、必要以上に外に「刺激」を求める必要が無くなったのです。

 

それに伴い「暇な時間」や「退屈」という、「何もしないでいる」時間を過ごすことへの抵抗も以前より少なくなりましたし、「無価値観」や「無意味感」が湧きあがってきても、それをどうにかしようともがき、無理やり行動することも減ってきました。

何故なら、その感情が湧きあがってくるのは当然ですし、待っていれば過ぎ去ることが分かるからです。

おかしな話ですが、「死にたい」という気持ちや「虚無感」に対する抵抗を諦めたことで、それがそこに在ることに苦しまなくなったのでした。

本当に意味があって価値あるものとは何なのか…?

でも、「この世界には意味も価値も、確かなことなどない」っていうなら、じゃあこの世界で何をすりゃあいんだよ!って思いませんか…?

正直、私もそう思っていました…(;´∀`)

そして、その答えは「どうあってもいい」ということでした。

自分が苦しく無ければ、形の上においては、もはや「どうでもいい」のです。

 

何故「苦しくない」ことがそんなに大切なのかというと、この世界には意味も価値も無いけれど、そこに意味や価値を与えてるのは「自分」だからです。

(けれど、ここでいう「自分」は「私が思っているような私(自我)」ではなく、もっと深い部分にあるものです…。)

 

つまり、本当に意味があって価値があるものとは「自分」なのです。

 私は今までこの「自分」という言葉を「(自我においての)自分」だと思っていたので、どうしてもそこに意味があり価値もあるとは思えないでいたのです。

そして、それは当然のことで、実際、自我には意味も価値もなく、そもそも「無い」ものでした。

 

自我のカラクリというか罠に敏感になることで、生き方は凄くシンプルで良かったと気付きます。

しかし、それが分かっていてもなお、自我は巧に「自分」を苦しめようとしてくるので警戒が必要です…(笑)

 

兎にも角にも、目の前に与えられた状況や現実に対して、色眼鏡をかけずに抵抗なく生きていくことが大事なのかもしれないと、今の段階では感じています…(*´ω`*)

死にたいと思ってしまった時の対処法

さて、話は変わりますが、今まで散々「死にたい」と思って生きてきたので、過去の苦しんでいた自分へ向けて、アドバイスを残しておきたいと思います。

「死にたい」という気持ちにもかなり幅があると思うので万人向けではありませんが、私と同じようなタイプの方の参考になれば幸いです。

死にたいと思って当然!だと思おう

まず最初に「死にたいと思って当然なんだよ」「全然、それが普通だから安心して。」と言いたいです。

私は当時「こんな風に物事を何でもネガティブに思ってしまう私はどこかおかしいんじゃないか!?」と自分を責めていました。

だから、ある意味そんな風に思ってしまうことは、「正常な感覚だよ。素直なだけだよ。」と言いたいです。

無理やり状況を変えようとしなくて良い

次に「自分が苦しくない道を選んでね。その状況を無理やりどうにかしないで諦めるのが一番の近道だよ。」と言いたいです。

 

本当に今の自分の状況にウンザリして「もう無理だ!!」と思ったら、自然と「この状況を変えたい!」と気持ちが湧いてきて頭でアレコレ考えないで勝手に行動を起こします。

そうでないなら、無理やりどうこうする必要は無いということです。

そのため、その時点ですべきことは、目の前の状況をどうにか変えようとするのではなく、とにかく自分の気持ちに向き合い、とことん、ネガティブな感情を感じることです。

これは、最初は辛くて苦しいことですが、とても効果があります。

何故なら、ネガティブな時にネガティブな感情を感じるというのは、その状況に抵抗していないということだからです。

私達は「ネガティブな感情」に大きな力あると思い込んでいますが、それを真正面から受け止めた時、それが「そんなに大したことじゃない」と気付きます。

 

どうせだったら、とことん降参してとことん堕ちるのが良いと思います。

中途半端に「頑張ろう」とか「前向きになろう」とかは、かなり遠回りです。

「自分って本当にクソだ」と思っているなら、「ああ…自分クソだ…」って受け入れましょう。

すると「自分ってそこまでクソじゃないんじゃないかな…?」って、勝手に自分で思えてきます。

そして「なんで自分で自分をこんなに苦しめているんだろう…?」と気付いて可笑しくなってきたら、かなり良い兆候です。

「被害者意識」を捨てよう!

もしかしたらあなたは「私がこんなに苦しいのは○○のせいだ!」とか「○○のせいで私はこうなった!」とか、今の状況を他人のせいにしているかもしれません。

逆に「私がダメなせいだ!」とか「無能な私が全部いけないんだ!」とか、自分を責めているかもしれません。

因みに、過去の私は後者でした。

どちらにせよ、誰かを責めている間は、どんなに状況が変わっても「苦しい気持ち」から脱することは出来ません。

 

感情を思いっきり感じて余裕が出てきたら、その時にすべきことは「被害者意識」を捨てることです。

つまり「自分の世界は自分が作っているよ」と言いたいのです。

本当に苦しい時は全く気付けないのですが、実はその状況は自分が引き寄せていて、全ての責任は自分にあったのだと気付きます。

外側に力があって、自分には何の力も無いと思っているうちは、その現実を引き寄せてしまいます。

だからこそ、外側には力がないのだと気付くことです。

  • ネガティブな感情を恐れずに感じること
  • 投影(鏡)の法則を使って「被害者意識」を捨てること
  • 目の前の現実は全て自分が作り出していると理解すること

目の前にある現実を変えるのではなく、自分の内側=現実への「解釈」を変えていくことで、どんどん心は穏やかになっていきます…(*´ω`*)

最後に…

さて、ここまで書いてきましたが、私は専門家でも無いしプロでも無いので、突っ込まれるところは多々あるように思います…(;´∀`)

また、生きる意味的な部分については「それは違うんじゃないかなぁ」とか「私はそうは思わない」という方も沢山いらっしゃるでしょう。

それは全然否定しませんし、ここではどっちが正しいとか議論する気はありません。

 

私はただ、自分が経験して迷ったり悩んだりしたことへの自分なりの答えを、自分の言葉で書いてみたかったのです。

誰かの言葉を借りて分かったようなフリをするのではなく、とことん自分が納得のいく答えを見つけていきたいと思っています。

だから、私にとってはこれは(今のところは)正解なのですが、別の人にとっては全然違うかもしれません…(;^ω^)

そのところを、ご了承いただければと思います。

 

長々と書いてきましたが、こんなことをごちゃごちゃと悩まずに、生きる意味や価値なんて全然考えないで日々、淡々と穏やかに生活している人達がいます。

私の主人もそうした人の中の一人なのですが、彼らは必要以上に自分を大きく見せようとしたり、逆に過小評価することもありません。

「恐れ」が他者よりも少ないが故に安定感があり、大きな安心感に包まれています。

 

 私は自分の中にある「恐れ」に今後もまだまだ向き合わなければいけませんが、いつかそんな「名も知れぬ最強の一般ピープル」の仲間入りが出来たら良いなぁと思っています…(*´ω`*)

 

ここまで長々と読んでいただき、ありがとうございました!