あのたまのクリスチャン生活

聖書と賛美とお祈りの日々をつづります。

自分を受け入れて、初めて、親を受け入れられた体験の話 1

特別では無いただの自分を受け入れるとき ~自分を諦める~

猫のイラスト

イラスト「あの子の誕生日」

ネットを開けば、あらゆる情報を見ることが出来る。それは、とても便利なことなのだが、同時に、今まで、私の人生を大きく惑わせてきたと思う。

同じ年代のあらゆる分野でキラキラと活躍する人たちを見ることが出来て、憧れて、私も「こんな風になれるのではないか」といつも希望を与えてくれた。けれど、それは同時に、現在の何でもない自分とを「比べる」対象にもなり、不安も生んでしまうことにもなった。

気付けばもう31歳になって、結婚はしているものの、子供はおらず、仕事は宿泊系のアルバイトをしている現状である。

同じ年で、子育てをしながらキャリアウーマンでバリバリ働く格好いい女性、ネットで自分の特性を生かしたビジネスをしている女性、音楽や絵画の分野で活躍している女性。

私が思う「普通」ではない人生を作り、輝いている人達が本当に心から羨ましい!!少しでも良いから、それに近づきたい。自分も何か、成し遂げていきたい。

長い間、こんな「普通」な自分をどうにかしたくて、何かに興味を持って打ち込もうとするものの、長続きはせず、ぐるりと一周まわって、私はまたこの位置に戻ってきている。

もちろん、これまで、結果は出なかったけれど、情熱を持ってやってきたことはある。それは「心」のことで、自分の悩みや不安と対話をするというものだ。ただ、それはやりたいというよりは、やらざるを得なくてやってきたものだけれど・・・。

そして、今、ふと、自分の足跡を振り返った時に、私は遂に、この、自身ではどうしても納得出来兼ねる今の自分自身を受け入れ、いい意味で諦めることを決意したのである。

そうしたら、涙がとめどなく流れてきて、この文章を書いている今も、若干目が潤っている状態である。

「私はここまでしか出来ない」

これは、偏差値の高い公立の中学校に通っていたとき、もうどんなに頑張っても勉強が周りに追いつかなかった時の気持ちと似ている。自分の限界を悟った時だった。

特別な「何か」になりたくて、ずっと迷走していた20代。そして、それがもう出来ないと悟った今、私はどこへ向かうのだろうか。

実はもう、答えが出ていることで、過去と今までを見たら、ちゃんと傍にそれは「在って、与えられているもの」だった。

もう「自分が、自分が、自分が」という、エゴを捨ててしまおう。今までやってきたことで、私は、これから生きて、未来を作っていかなければならない。その時に、本当に小さなことでも良いから、誰にも評価されなくても良いから、それが自分以外の誰かの幸せに繋がることになるものになっていくもので在りたい。

そして、そう感じた時、私は両親のことに思いを馳せるまでに至ったのだ。

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