あのたまのクリスチャン生活

聖書と賛美とお祈りの日々をつづります。

自分を受け入れて、初めて、親を受け入れられた体験の話 2

特別では無いただの自分を受け入れるとき ~自分の両親について~

妖精のイラスト

妖精の休息

私の両親は一般的な日本人で、世間の常識を守り、道徳もあり、どこにでもいる団塊の世代の人たちであった。自分たちなりの考えがあり、良い面も悪い面も両方持っている、本当にごく「普通」の人達だ。

私はそんな両親が嫌いではなかったが、一緒にいて安心できる人たちではなかった。精一杯子育てをしてくれたとは思うけれど、小さい頃は殴り合いの夫婦喧嘩は結構あって、本当にそれが嫌で仕方が無かった。私が落ち着かない子というのもあったが、母親は情緒不安定で不満をよく口にして、時には理不尽な言葉の暴力を受けたりもした。世間体を酷く気にしていたし、生きている姿はとても「退屈」に見えた。その為、ある時期から「両親(特に母親)みたいな人生を送りたくない」と思っていたのだろう。

だから、私が思う「普通」というのは「両親(母親)」ことで「普通じゃない人生を送りたい」というのは「常に穏やかなイキイキとした人生を送りたい」ということだったと感じている。

しかし、私は10代後半から20代後半まで、自身がいつもイライラとして、母が私にしてきたような態度を、当時付き合っていた彼氏(現在の夫)に同じようにしていると気づいた時、絶望して、今まで以上に自身を否定するに至った。

母と同じような状態に自分がなってしまっている。これ程嫌なことはない。

そこから、私は「自分のやりたいことは何か」を追求するようになった。というのは、イキイキとしている人達を参考にすると、皆「自分がやりたいことをやっている」人達ばかりだったからだ。自己啓発書にも「自分が好きなことに全力を注ごう」という言葉が多いのである。そのため、とにかく「自分の為に」生きようと行動を始めた。そして、同時に、このイライラを解消するべく、過去の自分と向き合うカウンセリングと、自己の探求を続けることになった。

けれども、10年近く自分はどういう風に生きていけばいいのか、自分は何が好きなのか、何がやりたいのか、それを探求し続けた結果「私には何が何でも、命を懸けてもやりたいことが、無い」という結論に至ったのである。

 

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