特別では無いただの自分を受け入れるとき ~「私」を生きる~
もちろん、「絵や漫画を描くこと」「ピアノ弾き語りをすること」といった趣味としてのやりたいことはある。
けれど、それを「仕事にしよう」とか「とことん追求していこう」とかな気持ちにはならない。
そして、そうしようと思えば思うほど苦しくなる。
でも、周りのキラキラしている人は、
そうやってやりたいことを「生きがい」にしていっているではないか。
では、私が今までやってきた「自己探求」はどうだろう。
これは、もし仕事にするならば、カウンセリングの仕事などに繋がるものだった。
しかし、これも同じで、カウンセリングを自分が受けるのはいいけれど、自分が他人にしたいとは一向に思わない。
じゃあ、何が残る?私は何が出来る?ああ、もう何も出来ない。
少なくとも、私が思う、「普通」を生きていく以外、何もできない。
と悟った、というか諦めた、というか絶望した。
両親と同じように生きていくしかない。
私から見たら、「魅力的ではない人たち」と同じように、普通に子供を産み普通に生きる。特別一つの何かの能力に秀でているわけでは無く、淡々と粛々と生きていく。
そして、それが心と体で腑に落ちた時、私は大号泣をしたのである。
私はこの未熟な「私」を生きるしかないのだ。
「私」からは逃げられるものではなく、死ぬまで向き合わなければいけない、いただいた「命」だと気づいたのである。
前↓↓↓
続き↓↓↓